精油の薫る喫茶店1月話【ミルラ】
人がいいにもほどがある。
めずらしくBGMの流れていない喫茶店内で、いい歳した男には似合わない赤いハビスカスティを見ながら思わず呟いた。
父親から社員百人ほどの今の会社を引き継いでもうすぐ10年。
父親は会長、私は社長として経営しており、幸い業績は安定している。
事件が起きたのは半年前。
一人の重役が数千万円を横領していた事が発覚した。
警察への対応、関係各位への謝罪。
諸々が落ち着いたのは最近だ。
当の重役は発覚後に有り金全て持って家族を置いて雲隠れし、やがて逮捕。金はほとんど残っておらず横領された金が戻る見込みは、ない。
残された家族は何も知らず、何が何やらわからないうちに物事が進んでいった様子だ。
無一文になった家族は奥さんと子供三人。奥さんは専業主婦だが、質素で信頼のおける人だという印象を持っている。長男は高校2年生、長女は中学2年生、末の女の子は小学5年生。
家族は家を引越し、奥さんはやっと見つけたパートの仕事を始めたらしい。
数日前、父と母が連れ立って残された家族に会いに行った。
何もない小さなアパートの薄暗い部屋。揃わない湯呑で出された薄い茶を啜りながらの話。
曰く、夫は横領した金以外にも多額の借金を作っていた事、長男は高校を辞め、働くつもりでいること、夫が横領した金も少しずつでも返したいと思っている事などなど。
元重役に余計に腹が立ったが、それ以上に家族が不憫なのは間違いない。
会長から話があると呼び出されたのは今朝の朝礼後。
会長室に行くと、母もそこにいた。
「お前はどう思う?」
椅子に座るのを待てないかのように父が訪ねた。
「何が?」
「あいつの家族のことだ。」
どう思うもなにも、と口を開く間もなく母が話し始めた。
「お父さんと話したんだけど、私たちには個人的な資産がある。それを、あの子たちに使ってあげようと思うんだけど、あなたはどう思うかしら?」
「はぁ?!あの子たちにって?」思わず声が大きくなった。
父曰く、例の家族に会いに行った後、夫婦でかなり話し合ったらしい。
結果、あの一家の背負った借金を自分たちの私財で肩代わりしてやろうという事になったというのだ。その上で強制はしないが、お前にも協力してもらえないかとのことだ。
確かに、家族、ましてや子供たちに罪はない。このままではあの家族は路頭に迷うかもしれない。長男もまだまだ未来のある若者だし、下の子供たちも、もちろんそうだ。
両親の気持ちはわかる。しかし、それにしても人が良すぎるんじゃないだろうか。
少し考えさせてくれと言い、頭を冷やすつもりで会社を出た。
「おかわりをお注ぎしましょうか?」
マスターがティーポットを持っている。
「ありがとうございます。」カップを差し出した。
「ここしばらく大変だったでしょう。」
マスターの気遣いに感謝しつつ、先ほどの話をした。
「よろしければどうぞ。」
話が一息ついたところで、マスターが試香紙を差し出した。先端が薄茶に染まっている。
「ミルラです。和名は没薬とも言います。キリストが死の間際、苦痛を和らげるために差し出された葡萄酒に没薬が入っていることに気づき、それを受けなかった。と言われています。没薬には強い鎮静効果があると言われていますから、死の直前まで意識をしっかりと保つためにだそうです。
またキリストの死は人々の罪を背負っての死である、という考え方があります。いわば、自己犠牲の愛というのでしょうか。」
「自己犠牲の愛か。」
重みのあるミルラの香りを嗅ぎながらつぶやいた。
刑柱の上でのキリストはどんな気持ちだったのだろうか。
もう一度、試香紙を鼻に寄せながら目を閉じた。
あの家族の様子が浮かんだ。
翌年、翌々年、彼らは笑っているだろうか。
まぁ、こんな時代、人がいいにもほどがあるほど人がよくなってみるのも悪くない。
2杯目のハイビスカスティはことのほか美味だった。